第二の人生は、自身の山をキャンバスにした作陶生活

ー陶芸との出会いは?
大友 東京の美大を出、東京でデザインの仕事をしていました。ところが1960年代後半当時に関東大地震が起きるという話がありましてね、実際に地震が頻発したもので薄気味悪くて九州に帰ろうかと。そんな矢先に弟が教えてくれた熊本日日新聞広告局アートディレクターの求人に応募しまして幸いにも中途入社叶いました。以来、制作現場で新聞の企画・クリエーターとしてで永らくお世話になりました。
途中53歳の時に、自宅近くを散歩していた時に陶芸教室があることを知り、家内と一緒に通い始めたのが作陶のはじまりです。一、二年続ける内に「もう教えることはありません」となって自分の好きなように作り続け、ついには「電気釜」を購入し敷地に置いたものですからいよいよ本格的になっていきましたね。
ー電気窯。ですか。
大友 そう、陶芸は多くは「穴窯」や「登り窯」ですが、この電気釜が一番簡単で設定時間など登録しておけば焼き方に間違いはない。
ー確か現在70歳でいらしたので陶芸歴17年間。ベテランの域ですね。
大友 いや、まだまだですが、作陶は人によって土を捏ねる感触が好きな人と嫌いな人に分かれるようですよ。私はこの土の感触が何とも好きでして。簡単に言うと子供の頃の泥遊びですよ(笑)。男の子は誰でも熱中したでしょう。私の場合は、これが雑念が無くどこまても集中できるんです。
ーその他、作陶の醍醐味は?
大友 陶芸は、こねはじめて出来るまで3回の変化を楽しめますからね。一回目は泥をこね形状を作る時。2回目はそれを素焼きして柔らかいのが硬くなる時。3回目は釉薬を塗って焼き上がるときの色。ほとんどがイメージと違う色に仕上がってしまいますが(笑)。
ー深いですね。
大友 イメージ通りにならないと、今度は違う工夫をしてみようとどんどんはまっていくわけです。気が付くと置き場所もない位に作品が出来てしまい(笑)。まあ、二回目の焼いたところでだいたい気に入ったものは少々色が思わしくなくても愛着が湧きますね。
ー大友さんの独自の作品は?
大友 私は形を追求する方なので、それをいうならば、最近では「蛙」でしょうね。これはいかに大きさから本物そっくりに作れるかがテーマ。はまって二百体ほど焼きました。
ー教室も開いてると聞きましたが。
大友 そうなんです。最初、装飾古墳館から案内がありまして。その後が山鹿市。月に4回教えています。私が少し指の感覚が変わってきたので、最近は自分でやるより教える方が多くなりました。しかし、これもこれで非常に面白い。全く初めての人がどんどんのめり込んでいかれる様子も楽しいですし、私の作陶の歴史と同じ道の同じ過程でつまづかれたりするのも、また私の復習にもなって楽しい(笑)。
ーどちらで教えていますか?
大友 鹿央と山鹿市で教室を開いています。年配の方が多く、皆さん楽しみにされていますよ。鹿央は山の一部を持ってますので教室だけでなく親子で里山体験が出来るようなつくりにしています。
隣にはホゾ組木工の専門の方と共同の教室も開いていますし、作陶窯もピザ釜も自分で手作りで作りました。燻製もできますよ。

ーまさに第二の人生を謳歌されてますね。
大友 せっかくなら色々なことをやってみたいと思います。だから見ず知らずの方でも、私の山でよければ一緒に山歩きからタケノコ堀り、ブルーベリー、栗、胡桃などの果樹狩りも楽しんでもらえると私も楽しいですから。果樹は沢山植えていますよ。
造作物は元々そんな家系でして、私の息子も作陶してますし、結構有名になってます。私の場合は、とにかくすべて自分で作らないと気が済まない性分です。
ー読者に一言。
大友 仕事を卒業されて、平日をゆっくりされているなら、ご一緒に里山で楽しみませんか?、ですね。海外からも検索してステイでこちらで宿泊してレンタカーで周辺にドライブして楽しまれたりしてますよ。インターネットは面白いですよね。海外からもう30組程が利用されています。
ー夢が広がりますね。今日はありがとうございました。

【大友 啓輔さんプロフィール】
1946年生。山鹿高校卒。多摩美大デザイン科卒業後、熊本日日新聞広告局アートディレクターに。定年退職後、陶芸を始め、ふるさとの里山の再生に着手。「このプロジェクトを通して地元の活性化と、楽しく健康な暮らしを伝えていきたいです。親子で様々な自然体験を楽しむ場所に!」