「5年・1クール」の生き方

 現在、スリランカを活動拠点にコーヒー栽培と輸入をメーンとする一般社団法人 日本フェアトレード委員会の清田和之代表理事。年齢は今年古希70歳を迎えた。20代で北部幼稚園を開園、再春館製薬所時代、ブラジルでのコーヒー事業、スリランカでのフェアトレード事業など傍目に映る何人分もの人生を聞いた。

「北部幼稚園」の開園

ー20代後半での北部幼稚園開園の経緯は?
清田 北部幼稚園については、保育は当時、家内の関心事で熊本出身ではない彼女が続けられる仕事をと。さらには二人とも「事業・経営」への関心が非常に高かった。何より熊本に帰った時に既に4歳と3歳の子供もいた為、「生活していくためには何がいいか」から考えたのが正直なところ。自らの子供も預けられる事業だったこともその理由でした。
ー決心されて「即実行」ですか?開園は何年でしょううか?
清田 そう、まさに即実行。社会福祉法人の保育園か学校法人の幼稚園の選択は少し時間を要しました。結果的に制約が大きい保育園より自由な事業展開が易い幼稚園を選択しました。現在は幼保連携型認定こども園となっています。

「再春館製薬所」時代

ー昭和50年代後半に再春館製薬所に。
清田 そう、年齢で35歳で入り40歳あたりまでの、これも5〜6年間でした。

ーその時期は相当刺激的でいらしたのではないか。
清田 この5年間は、今振り返っても相当なエネルギーで動くことができた時期で、かなりの新しい部分でのノウハウが爆発的に蓄積できた期間でもありました。なぜ、それが出来たかというと、その年齢が社会的な経験も色々出来ていて、ちょうど良かった。

ーダイレクトテレマーケィングの先駆でいらっしゃるわけですね。
清田 通信販売という言葉はあったが、当時は雑誌で「日陰物的商品」の売り方、それが通販だった。ただ、これも参考にできたのは雑誌の発行部数によって、凡そ大きな誤差がないレスポンス率がよめるものであったわけです。そんなところも含めて通販というものに非常に興味が持て追求もできた。それが色々な試みによるコンセプトづくりで爆発的な展開となり年商は5年間余りで数千万円から100億円へ成長しました。

「創造経営研究所」時代

ーその後は?
清田 その後は執筆活動と屋号「創造経営研究所」での主に通販のコンサルタント活動でした。
テレマーケティングとダイレクトマーケティングをミックスした手法に関する執筆と指導で指導先は軒並み売上を伸ばしました。そんな時代だったとも言えるでしょう。
立ち上げの身震いするような緊張感は私自身のライフワークとして捉えてます。他の方から見ると数奇な印象も持たれるかもしれませんが、私は人生は基本的に立ち上げから軌道に乗せるまで5年・1クールと考えてますから当の本人は至って自然です。
人からは「清田は途中で放って締まりが悪い」と言われることもありますが(笑)、私の中ではコンセプトが明確になり軌道に乗れば誰かに譲りたくなる。既に別の挑戦に目が向かってしまっていると解釈されたい(笑)。

「コーヒー ブラジル」時代

ーそれからブラジルでの動に。
清田 通販で指導するお客さんの業績は伸びるが私の事業が伸びるわけではないので(笑)。
要は自分でももう一度商品を持って通販がしたかった。それで自信が持てるコーヒーを、と探し始めたのがきっかけです。

ーなぜ、コーヒーに焦点を?
清田 コーヒーの可能性と有機無農薬のコーヒーが当時なかった。すでに幼稚園での給食も有機無農薬に拘っていた。ブラジルで初のJAS認定を取られたイヴァンさんというブラジルのコーヒー農場主にお会いしウチでも扱えるようになった。当時のコンセプトは有機無農薬コーヒーの海外産直販売です。
そして5年間ほど経った時、2002年に有機無農薬に拘る中でスリランカコーヒーに行きつき歴史のストーリーに出会いました。

スリランカとの出会いフェアトレードとの出会い

ースリランカと言えば、セイロンティー。イメージは紅茶ですが。
清田 私も当初はそうでした。調べるとスリランカコーヒーは世界屈指の輸出量を誇っていたようです。寒暖差大きくコーヒー栽培に適した丘陵地帯ですから。それが世界的なコーヒー相場の下落や一部病害虫被害から様相が一変した。植民地支配していたイギリスが自国で栽培方法を構築していた紅茶の一大産地化へと大きく舵を切り直したのが史実のようです。

ー現地の方々は自国がコーヒー産地であったことは知っていたんですか?
清田 農業関係者以外、殆どの人は知りません。今でも山の中や民家の庭先など所々に当時からのコーヒーの木が僅かに残ってますが地域によっては煎じて飲む腹薬の認識。
15年前、スリランカは内戦の最中で、今でも貧しい国です。なのでこの歴史あるコーヒーをウリにして自国の一産業として再度復興させ自立の糧にしてはどうかと。

ービジネスとしては随分の長い計画になるようでですが。
清田 そう、もう15年ですから。途中からビジネスを度外視しフェアトレードに没頭して、彼らが自力で産業として成立してもらうことを真剣に考えるようになりました。そのことで、私も時間はどこか仕方ないものと割り切っています。
成功事例が無く模倣するものがないので仕方ない。こちらも忍耐強くやるしかない。日本人と対するような感覚はすべて捨ててかからないと。

ー7年前には当時の首相を熊本にお呼びになってますね。
清田 日頃のコーヒー再興の支援活動をご評価いただいていたので快く熊本に足を延ばしてもらいました。その晩には地元の皆様との歓迎会なども賑々しくしました。

ーコーヒーの現況は?
清田 植樹した木も数十万本に及び、数年前は数トンでしかなかった収穫も年々加速度的に増え始めて今年で国全体で10トン。ただ事業として成立すると感じたのはまだ最近、2010年辺りのこと。来年は倍の20トンを予測しています。

ー現地の雇用にも貢献されているのでは?
清田 今では300世帯弱、500人程度が従事しています。体制も構築できています。

ーコーヒー豆はすべて日本への流通ですか。
清田 今後は欧州などニーズがある地域すべてが対象になるでしょう。日本のようにスリランカ国内もコーヒーがブームになりかけています。コロンボなど海外からの観光客もこの数年増えていますのでここで多く消費されるに越したことはない。事業に携わる者も自国から反響があれば喜びも一潮でしょうし。

ー次の75歳までの5年間ではこれまでのように新たな事業展開もお考えですか?通販でのスリランカコーヒー販売など。
清田 さすがに思い切った事業は後進に譲らないといけません。しかし、まだまだ現役は続けます。

ーありがとうございました。